FIREはおしまい!

うう……体が重い。なんだか長い夢を見ていた気がする。

もうこんな時間か。そろそろ起きないと会社に間に合わない。

 

鳴り響くアラームを止め逡巡する。いや待てよ……?

確か俺は会社を辞めたはず。

会社の昼休みに動画編集の作業をしたり、同棲していた彼女を断捨離して貯金をしたり。そうして頑張って貯めたお金で退職したじゃないか。なのになぜ会社に行こうとしてるんだ。

 

あれだな、漫画の原稿作業で疲れて辛い記憶がフラッシュバックしてしまったんだろう。今日はもう少し寝……

 

「お兄ちゃん起きて! 早くしないと入社式に間に合わなくなっちゃうよ!」

 

……え? 俺に「お兄ちゃん」なんて呼ぶ妹は、少なくとも血縁上にはいないはずだが。それに今はひとり暮ら……

「ほら、早くこれに着替えて準備しよ?」

妹(仮)から差し出されたそれを受け取った俺は、また疑問符を浮かべる。

「ってこれ女物のスーツだし。自分のと間違えてない?」

しかし妹(仮)はによによと笑みを浮かべながら、

「ううん、それであってるよ」

と俺の返却を断る。

 

もう何が何だか。今日はしょっぱなから何かおかしいし、もうおはようからおやすみまでなすがままにされてやるかと諦めてカーテンを開け……

 

窓には見知らぬ女子が映っていた。髪は寝癖だらけだし目は半分しか開いてないが、割と好みの女子が。

 

「……誰?」

 

当然の質問を彼女に投げかける。しかし鏡に映る彼女と俺の口は完全に同期している。もしかして、これ、俺?

 

「どう? お兄ちゃん? いや……、お・ね・え・ちゃん?」

 

「お前……一服盛ったなーーーーーーー!?!?!?」

 

ーーー

 

「どういうことだよ……俺は会社とか絶対に行かないから!」

ダイニングテーブルで俺を待ち構えていた妹(仮)へ詰問する。冗談じゃない。

「いや性転換した方に突っ込もうよ」

妹(仮)は呆れた税務署職員のような冷酷さで俺の抗議を受け流す。

 

イマイチ状況が飲み込めないながらも、背中まですっと伸びた漆黒の長髪に、切りそろえられた前髪、瞳の横から顎にそっと流れる毛束を携えた、ど真ん中ストレートの好みの女子へと変貌した俺は、ほんの少し、そう、ほんの少しわくわくしながら女性用のスーツに袖を通し身だしなみを整えていた。

人間は都合の良い出来事を飲み込んでしまう生き物なのだ。

 

「だってお兄ちゃん、人生あと70年もあるのに社会不適合すぎて心配なんだもん」

「それはしょうがないだろ。クレームは生産元に言ってくれ」

 

困っているのか怒っているのかよく分からない顔で、俺への不満を垂れ流す妹(仮)。

……いやもう(仮)はおしまいにしよう。この奇妙な展開自体が(仮)なんだから。

 

「お兄ちゃんさ、口を開けば『週に5日も働けない』とか」

「うっ」

「『人と喋りたくない』とか」

「まぁ……」

「『税金は払ったら負け』とか」

「正論」

「『内なる進撃の巨人が自由を求めている』とか」

「それはマジでやめて」

「挙句の果てに『お兄ちゃん会社辞めてYouTubeで食っていこうと思うんだ』とか言いだすから本気で心配してたんだよ?」

 

朝からハイカロリーな責め苦を受けている。これが令和の拷問か。血縁上の妹でなければご褒……ゲフンゲフン。

 

ふと我に返り、現実を思い出す。

「というか今日って入社式……じゃなかったのか? やっぱ行かなくていい?」

そうだったと勢いよくこちらへ詰め寄る妹。

 

「FIREはおしまい! そのために私が準備してあげたの。まっとうな社会人として生きていきたくなるご褒美をねっ」

「それがこの姿……ってことか?」

 

確かに可愛い服は着たいしプリキュアになりたい。

 

が、俺がこんなもので喜ぶと思うなよ。

 

ーーー

 

「なるほど……パウダーの種類を使い分けることで擬似的に立体感を生み出すのか……」

気づけば妹のメイク講座を受けていた。とはいえ時間も差し迫っているので、今日はすべておまかせフルコースである。

 

「薬の効果がうまく出てるから、ぱっちり二重だしまつげも長いし、血色もいいからナチュラルメイクでも十分盛れるねっ」

それはよかった。これから毎朝メイクをするとなると、なるべく工数が少ない方が助かる。いや毎朝は通わないが?

 

「本当に行くのか……?」

「へー。ここまでの美少女になったのに、お家に引きこもっちゃうんだ」

そんな半額弁当並みの安い煽り文句に乗ると思うなよ?

 

「……まあせっかくのメイクも無駄になるし、仕方ないから浮かれた男どもに見せびらかしてくるか」

「いってらっしゃい! お姉ちゃんっ」

 

まんまと家を出てしまった。何が楽しくて人生二度目の入社式に出なきゃならんのだ……。

ちなみに俺、改めて私の名前は「黒髪らんが」らしい。どこかで聞いたことがある気もするが、まあヨシとしよう。

一人称も「俺」でいいかと思ったけど、社会人のオレっ娘はやや刺激が強すぎるので素直に「私」でいくとする。

 

慣れないパンプスに苦戦しつつ、最寄り駅の改札をくぐる。なんとか入社式には間に合う時間だ。

これこれ。こういう電車の時間を気にするのも嫌なんだよなあ。退社時間は守らないくせに始業時間だけやたら厳密なんだよあいつらは。

 

8時4分発の電車に乗り込む。幸いにも東京のような満員電車ではないものの、この世の負の感情を煮詰めて噴霧したような朝の車内の雰囲気は嫌いだ。

そうこうしているうちに会社の最寄り駅へ到着。5年半通ったルートだ。まだ体は覚えているらしい。

 

しかし覚えているのはルートだけではなかった。

「いたたたたた……」

差し込むような胃痛。炭鉱のカナリアよろしく、会社に近づくと体に異常が出る体質は治癒していないらしい。やっぱり帰ろうか。

 

「新入社員の方はこのまま奥の建屋へ向かってくださーい」

すっかり社会人の顔をした先輩が誘導している。気づけば人の流れに乗ってしまい、そのまま地獄の門をくぐってしまった。

果たしてこの中に、ワクワクドキドキしながら今日この日を迎えた若者が何人居るのだろうか。本当に居るのならばぜひ見聞を広めるためにご高説を賜りたい。

 

入社式会場の中心地に向かうに連れ、どんどん気が重くなってゆく。禍々しいオーラさえ見えるし、ある意味パワースポットかもしれない。

いや、だめだめ。こんな顔してちゃもったいない。

せっかく黒髪ロング前髪ぱっつんの美少女になれたことだし、男ども……には興味はないが少しは社会の生き物たちと接して妹に土産話を持ち帰ってやろう。

 

「よし」

 

俺はグロスきらめく唇の内側でそっとつぶやき、会場へと向かった。

 

ーーー

 

「 か え り た い い い い い ! ! ! 」

開始1時間で心もメイクもズタボロだった。

やっぱりこの軍隊みたいな雰囲気、虫酸が走る。

 

第一になんで「入社おめでとう」なんだ。「ありがとう」だろ?

なにちょっと上からきてるのかしら? 対等な契約関係じゃなくって?

現実には存在しないお嬢様言葉で、この憤りを思わず中和したくなる。

 

「だいじょうぶ……?」

隣にちょこんと腰掛けたボブカット女子がこちらを気にかけてくれているみたいだ。

「今すぐ辞めたいよねえ」

反射的に反社的な言葉が口をついてしまった。こちとら一度退職を経験した者だ。面構えが違う。

 

「ええっ!?」

入社式から辞めたいなんて言う奴は、まあ思っていても口に出すことはないので、少々驚いているようだった。

「だってこれから40年も働くとかありえなくない?」

いたいけな新入社員に容赦なく愚痴を吐き散らす。

 

「ま、まあ女性だと結婚とか育児で退職する人も多かったけど、これからはみんな40年以上働くのが当たり前だろうし、頑張るしかないかなって……」

そりゃそうか。なんとか覚悟を決めて今日を迎えた若人に水を指すのも悪いかと思い直し、ごめんなんでもないと平謝りでその場をやり過ごす。

 

その後も退屈で陰鬱で絶望的な式典は順調に進み、ようやく昼休憩の時間となった。

「帰るかー」

思わず呟いてしまったが、今帰ると終業の時間まで5時間もフライングすることになる。今日から午後半休使えないかな?

 

「えっまだ昼休憩だよっ! よかったら……一緒にごはん食べない?」

心優しい隣のボブカット女子が、仲間になりたそうにこちらを見ている。

ぼっち参加の陰キャにとってこれはありがたい。しかもおかしな言動をする俺を誘ってくれる慈愛に溢れた女子だ。SSRだ。

「ぜひに!!!」

今日一番の元気な声が出てしまった。授業中当てられた時は静かなのに昼休みになると途端に元気になる女子か。

 

SSRな彼女の名前は、四月一日わたぬきあかり というらしい。あかりちゃんね。

「あかりちゃん、せっかくだし外行こうよ」

「えっでもみんな食堂に行ってるみたいだよ?」

「あそこはほら……」

家畜が一斉に干し草を与えられてるみたいで嫌、とは言えなかったので、

「新入社員でごった返すから外の方が早く食べられてゆっくりできそうだし」

と生生流転する昨今のAIの如く違和感のないセンテンスを繰り出し、禍々しいアンチパワースポットから彼女を連れ出した。

 

ーーー

 

「らんがちゃんはなんでこの会社を選んだの?」

「御社の製品は生活になくてはならないものであり、またインターンシップでお世話になった先輩方の……」

「面接みたいだねっ」

ころころと笑うあかりちゃんの笑顔がまぶしい。入社式最高。

「あかりちゃんの質問こそ面接じゃん」

「ふふ、たしかに」

 

そんな入社式らしい会話を楽しみつつ、オフィス近くにあるファミレスで昼食兼休みをとる。

まあこんな生活も悪くないかと思いながらも、これから待ち受けるオリエンテーションを思い出し、やはり心は打ち砕かれるのであった。

 

ーーー

 

午後からは新人研修と名のついた洗脳教育が始まった。

注:この物語は当時の時代背景や思想を考慮し、一部不適切な表現をそのまま掲載しております。

 

いやそんな注意書きいらんから。洗脳教育は事実だから。

とまあ炭水化物と疲労でシャットダウンしそうな体をなんとか叩き起こしながら、長い長い洗n……研修に耐える午後1時。

 

それからも会社の理念を詠唱したり、自己紹介&抱負を述べさせられたり、それっぽいイベントをこなし定時を待つ。

 

「10年後は担当した商品を自慢できるエンジニアになりたいです」

「課でトップの営業成績をとります」

本当か?本当にそうなりたいんか?

 

ちなみに俺が入社当時に言ったことといえば、

「定時に帰って趣味を楽しみます」

みたいな感じだった気がする。今思えば初日から社会適正のなさを露呈しまくってますわね。

 

二周目の自己紹介でも適当なことを言ってお茶をにごしておく。本当に適当すぎて何を言ったかもう忘れてしまった。

そんなこんなで時間は流れ、時計の針はようやく17時へとたどり着いた。

 

「また明日ね、らんがちゃん」

「もう会えるか分からないけど、またね、あかりちゃん」

「ええっ!?」

不穏な捨て台詞を吐き会社を後にするらんがちゃん。

入社式からやっぱりクソな一日だったけど、あかりちゃんとは楽しくお喋りしたしまた来てやっても……いいかな?

 

ーーー

 

「いやー好みの女子になっても無理なもんは無理だわ」

帰宅するなり社会への敗北を宣言する。

「お兄ちゃん……」

 

「むしろ女子で会社員とかデメリットしかないわ! 毎朝メイクするのは地獄だし、定期的に化粧直しするのも面倒すぎるし、会社はクソだし、電車のおじさんはなんか怖いし。あ、でもあかりちゃんは良い子で楽しかったしまた会いたいな」

「ちゃんとお友達もできたならよかったじゃん! でも会社がクソなのは女子とか関係ないよ」

一言一句話を漏らさず聞いて偉いぞ妹よ。でも余計な部分は拾わなくていい。それが社会人ってもんだ。

 

「どう? これを機に社会に戻ってみるのも悪くないんじゃない?」

妹は不安と期待を9:1で割った顔でこちらを覗いてくる。さすがは我が妹だ。いい勘をしている。

 

「新入社員って二日目から有給使えるかな?」

「こりゃ失敗か……」

俺のつぶやきで妹の顔は落胆10割の顔へと変貌してしまった。すまぬ妹よ。やはり兄に社会は厳しすぎる。姉になってもな。

 

「今回もダメだったけど、次こそは……」

「え、何か言った?」

「ううん、なんでも! 今日は疲れただろうし、ごはんにしよかっか!」

そう言って妹は、準備してくれていた夕食を手際よく並べてくれる。まあこんな生活も悪くないか、なんてことは1Åも思わないが、一日の疲れを癒やすべく食事を頂く。

 

……あれ、なんだか体が重く……なっ……て……

 

ーーー

 

エラく体が重い。長い夢を見ていた。

イヤイヤしかしこんな時間か。

プププと鳴るアラームを止める。

リアルな夢だったなあ。

ルーティンにないアラームで起きたからか。

フードを脱いで、今日がまたはじまる。

ルームツアーの動画でも撮ろうかね。

 

Fin

 

Thanks to “お兄ちゃんはおしまい!”